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2020年2月13日 (木)

弁理士に向く人・向かない人の答え


弁理士に向く人と向かない人で議論があるとすれば、それには正答がないということはいえそうだ。

弁理士に向く人・向かない人という切り口は、弁理士が何か理想的な唯一無二な像であることを前提にしていることになるが、弁理士の価値を決めるのは我々弁理士でもなければ、特許庁の職員でもない。誰が弁理士の価値を決めるかといえば、各依頼人の判断ということになる。


その依頼人も、100人いれば、各々価値観が異なるわけで、依頼人側に画一的な判断基準があるわけでもない。

一応、品質高さ・正確さ・明確さ・弁理士報酬・迅速さなど、具体的な基準を並べあげることができるが、低報酬の弁理士が弁理士報酬の低さを売りにして、高額弁理士のクライアントに営業をかけても、何も変わらない。

そうすると、弁理士に向く人・向かない人には、答えがない、つまり、理想的な弁理士像はないといえる。

理想的な弁理士像がないのであれば、それは各弁理士にとってチャンスがある。

弁理士は知的財産権を専門とするプロであるものの、各々の個性は異なる。

この個性というのはクライアントに対して、とても重要なファクタであり、クライアントの評価を左右する決め手になる。


高学歴弁理士が良いというクライアントもいれば、学歴よりもフットワークや柔軟性を評価するクライアントもいる。

ベテランで経験豊富な弁理士を希望する依頼人がいれば、新人で素直な弁理士を一押しする依頼人もいる。


結局、弁理士は、依頼人やクライアントとの相性が良いか否か、これが最も重要なことであろう。

弁理士も依頼人も知財を介した人付き合いに他ならないことからも明らかである。


だから、弁理士同士が依頼人の感性を無視して向く・向かないの議論をするのはナンセンスである。

弁理士に向く人・向かない人は、依頼人やクライアントに対して価値を提供するという意味において、彼らが独自の価値観で決めることである。


したがって、全員が弁理士に向くという結論に至る。


結婚相手を決めるのと同じである。

自分が綺麗だと思っていたり、かっこいいと思っている人で独身者もいれば、そうでない人が既婚者であったりする。

結局、自分の価値観ではなく、相手が自分を選ぶのだから、当然というば当然なわけだ。


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